子どもの頃、何気なく手に取った伝記の中に、キュリー夫人がいた。
物語としての筋や成果よりも、断片的な場面が、そのまま今も記憶に残っている。

寒さの厳しい環境で、十分とは言えない条件の中、それでも学び続けている姿。
そして、あるとき授業が突然、裁縫の時間に切り替わる場面。
その唐突さが、学ぶという行為の不安定さとして、強く印象に残った。
知識は、いつでも当たり前に許されるものではない。
そんな空気が、子どもなりに伝わってきた気がする。

当時、彼女がノーベル賞受賞者だということは知らなかった。
偉業を成し遂げた人物としてではなく、ただ学びに向かい続ける人として、心に残っていたのだと思う。

大人になってから、断片的に事実を知るようになった。
夫の死の背景や、私生活に関わる出来事。
研究がもたらした成果と、その先に連なっていく影。
子どもの頃に抱いていた尊敬の像と、静かに食い違うものが、少しずつ重なっていった。

尊敬が崩れた、というより、単純ではいられなくなった。
知ってしまったあとでも、尊敬の感情が残っていることは、正しいのかどうか、自分でもよく分からない。

知が光を放つことと、その影を引き受けることは、切り離せない。
頭ではそう理解しながらも、感情の整理は簡単ではない。
割り切れなさだけが、静かに残った。

旅行先として、行きたい場所を考えるようになったのは、ずっと後のことだ。
理由を並べて現実的に考えていく中で、多くの候補は自然と外れていった。
それでも、なぜかポーランドだけは外れずに残った。
強い動機があったわけではない。ただ、消えなかった。

振り返ってみると、そこには共通した感覚があったのかもしれない。
尊敬や帰属、価値といったものが、きれいに一つにまとまらないまま残り続ける感じ。
その少し居心地の悪い状態が、ポーランドという場所と、どこかで重なっていた。

その感覚の中に、ショパンという存在が入り込んでくる。
祖国を離れ、亡命し、パリで生きた作曲家。
お墓はパリにあり、心臓はポーランドに戻された。
その事実は、整いすぎているようで、同時に、どこか落ち着かない。

国と個人、生と死、帰属と選択。
ポーランドとパリが分かれていることは、悲劇とも美談とも言い切れない。
ただ、そうなっている。
その分断のあり方が、説明を拒むように、静かにそこにある。

キューリー夫人の記憶と、ショパンの存在。
知と芸術、光と影、尊敬と違和感。
どれも整理しきれないまま、重なって見えている。
ポーランドという場所が今も外れずに残っている理由を、無理に言葉にする必要はないのかもしれない。

理解しきれないものを、理解しきれないまま置いている。
今も変わらず、ここにある。