フジコ・ヘミングは、ずっと好きなピアニストのひとり。
新作ドキュメンタリー『フジコ・ヘミング 永遠の音色』を観てきた。
静かに流れる映像と音の中で、昔コンサートで感じたこと、本で読んだ言葉、
そして今だからわかる“あの感じ”が、すっとつながっていった気がする。
観る前から、なんとなく知っていたつもりだった
彼女の本は何冊か読んでいたので、ざっくり人生の輪郭は知っていた。
個性的なお母さん(今で言う「毒親」タイプなのかも)、
国外追放になったお父さん、そして数々の理不尽。
親の影響って、良くも悪くも想像以上に深い。
そして、私が一番好きな言葉👇
「間違ったっていいじゃない。私の鐘なんだから。ぶっ壊れた鐘があったっていいじゃない。」
この言葉に、どれだけ救われたことか。
自分が《ラ・カンパネラ》を弾くときは、いつもこの言葉を紹介してから弾いていた。
「ぶっ壊れた鐘」でいい。
完璧じゃなくても、自分の音を鳴らせばいい。
コンサートで感じた“音そのもの”の存在
実際にコンサートにも行ったことがある。
ミスタッチはあるし、テンポも独特。
「こんなにのんびり展覧会の絵を弾いてたら夜が明けちゃうぞ…😅」と思った瞬間も。
だけど、ぽーん、と放たれた音が、ただの音じゃなかった。
“上手い”とか“正確”とか、そんな言葉が全部どうでもよくなる。
一瞬で惹きこまれ、どこか別の次元に連れて行かれるような、不思議な引力があった。
演奏が終わり、彼女が腰をさすりながらゆっくり舞台を去る姿を見たとき、
「あぁ、このテンポは“彼女の時間”なんだな」と腑に落ちた。
流れている時間が違うから、このテンポになる。
人と違ってもいい。これが“自分の鐘を鳴らす”ということなんだなと感じた。
映画で感じた“静かな悟り”
映画の中のフジコ・ヘミングは、
過去の理不尽や痛みを、恨むでもなく、感謝で上書きするでもなく、ただ淡々と受け止めていた。
その静けさが、妙に心に残った。
「ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき」
ふと口にしたこの一首が、本当に沁みた。
つらかった時も、過ぎてしまえば恋しく思える。
良いも悪いもなく、ただ“生きた証”として残る。
その感覚、少しわかる気がする。
…私も大人になったのかな。
音が主役の映画
全編を通して、ピアノの音が本当に美しかった。
映画館なのに、まるでコンサートホールにいるみたいで。
音がスクリーンを越えて空気に溶けていく。
映像を超えて“気配”として残る感じ。
まるで“今を生きている音”みたいだった。
それでも気になることはいくつかあった
感動しながらも、つい気になってしまったところもある。
- お父さんはなぜ国外追放になったのか?
- お母さんの性格が難しかったのは、夫の恋人の存在が原因?それとも逆?
- 「15年も騙されていた」という有名音楽家の恋人とは誰?
- 世界各地のあのおうち、素敵すぎるけどお掃除しにくくない?🧹
…などなど、下世話な好奇心が止まらなかった😂
でも、たぶんこの映画は“語らない”こと自体がメッセージなんだと思う。
「察してね」っていう余白。
前作『フジコ・ヘミングの時間』を観ていない私が知らないだけかもしれない。
これを機に、そちらも観てみようと思う。
友人の“じわっと来た”瞬間
一緒に観た友人が言っていた。
「最後、《ため息》の演奏シーン、何もしてないのに泣けた。何なんだろう?」
ほんと、それ。
説明も演出もないのに、心が動く。
映画の手法なのか、それとも音楽そのものの力なのか。
ふと、黒澤映画を思い出した。
余韻
フジコ・ヘミングの強さは、戦うことじゃない。
流れに逆らわず、受け止めて、笑って、また弾くこと。
ぶっ壊れた鐘を、そのまま鳴らすこと。
それがどんな音でも、誰かの心に届く。
たぶん、いつか今日を懐かしく思う日がくる。
だから、今の音を鳴らせばいい。
完璧じゃなくても、美しいと思える瞬間は、ちゃんとある。
さぁて、ピアノ弾こうっと😊

